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Yinxing/LLM_Dataset

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1走れメロス太宰治メロスは激怒した。2必ずかの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。3メロスには政治がわからぬ。4メロスは村の牧人である。5笛を吹き羊と遊んで暮して来た。6けれども邪悪に対しては人一倍に敏感であった。7きょう未明メロスは村を出発し野を越え山越え十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。8メロスには父も母も無い。9女房も無い。10十六の内気な妹と二人暮しだ。11この妹は村の或る律気な一牧人を近々花婿として迎える事になっていた。12結婚式も間近かなのである。13メロスはそれゆえ花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いにはるばる市にやって来たのだ。14先ずその品々を買い集めそれから都の大路をぶらぶら歩いた。15メロスには竹馬の友があった。16セリヌンティウスである。17今は此のシラクスの市で石工をしている。18その友をこれから訪ねてみるつもりなのだ。19久しく逢わなかったのだから訪ねて行くのが楽しみである。20歩いているうちにメロスはまちの様子を怪しく思った。21ひっそりしている。22もう既に日も落ちてまちの暗いのは当りまえだがけれどもなんだか夜のせいばかりでは無く市全体がやけに寂しい。23のんきなメロスもだんだん不安になって来た。24路で逢った若い衆をつかまえて何かあったのか二年まえに此の市に来たときは夜でも皆が歌をうたってまちは賑やかであった筈だがと質問した。25若い衆は首を振って答えなかった。26しばらく歩いて老爺に逢いこんどはもっと語勢を強くして質問した。27老爺は答えなかった。28メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。29老爺はあたりをはばかる低声でわずか答えた。30王様は人を殺します。31なぜ殺すのだ。32悪心を抱いているというのですが誰もそんな悪心を持っては居りませぬ。33たくさんの人を殺したのか。34はいはじめは王様の妹婿さまを。35それから御自身のお世嗣を。36それから妹さまを。37それから妹さまの御子さまを。38それから皇后さまを。39それから賢臣のアレキス様を。40おどろいた。41国王は乱心か。42いいえ乱心ではございませぬ。43人を信ずる事が出来ぬというのです。44このごろは臣下の心をもお疑いになり少しく派手な暮しをしている者には人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。45御命令を拒めば十字架にかけられて殺されます。46きょうは六人殺されました。47聞いてメロスは激怒した。48呆れた王だ。49生かして置けぬ。50メロスは単純な男であった。51買い物を背負ったままでのそのそ王城にはいって行った。52たちまち彼は巡邏の警吏に捕縛された。53調べられてメロスの懐中からは短剣が出て来たので騒ぎが大きくなってしまった。54メロスは王の前に引き出された。55この短刀で何をするつもりであったか。56言え!暴君ディオニスは静かにけれども威厳を以て問いつめた。57その王の顔は蒼白で眉間の皺は刻み込まれたように深かった。58市を暴君の手から救うのだ。59とメロスは悪びれずに答えた。60おまえがか?王は憫笑した。61仕方の無いやつじゃ。62おまえにはわしの孤独がわからぬ。63言うな!とメロスはいきり立って反駁した。64人の心を疑うのは最も恥ずべき悪徳だ。65王は民の忠誠をさえ疑って居られる。66疑うのが正当の心構えなのだとわしに教えてくれたのはおまえたちだ。67人の心はあてにならない。68人間はもともと私慾のかたまりさ。69信じてはならぬ。70暴君は落着いて呟きほっと溜息をついた。71わしだって平和を望んでいるのだが。72なんの為の平和だ。73自分の地位を守る為か。74こんどはメロスが嘲笑した。75罪の無い人を殺して何が平和だ。76だまれ下賤の者。77王はさっと顔を挙げて報いた。78口ではどんな清らかな事でも言える。79わしには人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。80おまえだっていまに磔になってから泣いて詫びたって聞かぬぞ。81ああ王は悧巧だ。82自惚れているがよい。83私はちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。84命乞いなど決してしない。85ただ――と言いかけてメロスは足もとに視線を落し瞬時ためらいただ私に情をかけたいつもりなら処刑までに三日間の日限を与えて下さい。86たった一人の妹に亭主を持たせてやりたいのです。87三日のうちに私は村で結婚式を挙げさせ必ずここへ帰って来ます。88ばかな。89と暴君は嗄れた声で低く笑った。90とんでもない嘘を言うわい。91逃がした小鳥が帰って来るというのか。92そうです。93帰って来るのです。94メロスは必死で言い張った。95私は約束を守ります。96私を三日間だけ許して下さい。97妹が私の帰りを待っているのだ。98そんなに私を信じられないならばよろしいこの市にセリヌンティウスという石工がいます。99私の無二の友人だ。100あれを人質としてここに置いて行こう。101私が逃げてしまって三日目の日暮までここに帰って来なかったらあの友人を絞め殺して下さい。102たのむそうして下さい。103それを聞いて王は残虐な気持でそっと北叟笑んだ。104生意気なことを言うわい。105どうせ帰って来ないにきまっている。106この嘘つきに騙された振りして放してやるのも面白い。107そうして身代りの男を三日目に殺してやるのも気味がいい。108人はこれだから信じられぬとわしは悲しい顔してその身代りの男を磔刑に処してやるのだ。109世の中の正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。110願いを聞いた。111その身代りを呼ぶがよい。112三日目には日没までに帰って来い。113おくれたらその身代りをきっと殺すぞ。114ちょっとおくれて来るがいい。115おまえの罪は永遠にゆるしてやろうぞ。116なに何をおっしゃる。117はは。118いのちが大事だったらおくれて来い。119おまえの心はわかっているぞ。120メロスは口惜しく地団駄踏んだ。121ものも言いたくなくなった。122竹馬の友セリヌンティウスは深夜王城に召された。123暴君ディオニスの面前で佳き友と佳き友は二年ぶりで相逢うた。124メロスは友に一切の事情を語った。125セリヌンティウスは無言で首肯きメロスをひしと抱きしめた。126友と友の間はそれでよかった。127セリヌンティウスは縄打たれた。128メロスはすぐに出発した。129初夏満天の星である。130メロスはその夜一睡もせず十里の路を急ぎに急いで村へ到着したのは翌る日の午前陽は既に高く昇って村人たちは野に出て仕事をはじめていた。131メロスの十六の妹もきょうは兄の代りに羊群の番をしていた。132よろめいて歩いて来る兄の疲労|困憊の姿を見つけて驚いた。133そうしてうるさく兄に質問を浴びせた。134なんでも無い。135メロスは無理に笑おうと努めた。136市に用事を残して来た。137またすぐ市に行かなければならぬ。138あすおまえの結婚式を挙げる。139早いほうがよかろう。140妹は頬をあからめた。141うれしいか。142綺麗な衣裳も買って来た。143さあこれから行って村の人たちに知らせて来い。144結婚式はあすだと。145メロスはまたよろよろと歩き出し家へ帰って神々の祭壇を飾り祝宴の席を調え間もなく床に倒れ伏し呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。146眼が覚めたのは夜だった。147メロスは起きてすぐ花婿の家を訪れた。148そうして少し事情があるから結婚式を明日にしてくれと頼んだ。149婿の牧人は驚きそれはいけないこちらには未だ何の仕度も出来ていない葡萄の季節まで待ってくれと答えた。150メロスは待つことは出来ぬどうか明日にしてくれ給えと更に押してたのんだ。151婿の牧人も頑強であった。152なかなか承諾してくれない。153夜明けまで議論をつづけてやっとどうにか婿をなだめすかして説き伏せた。154結婚式は真昼に行われた。155新郎新婦の神々への宣誓が済んだころ黒雲が空を覆いぽつりぽつり雨が降り出しやがて車軸を流すような大雨となった。156祝宴に列席していた村人たちは何か不吉なものを感じたがそれでもめいめい気持を引きたて狭い家の中でむんむん蒸し暑いのも怺え陽気に歌をうたい手を拍った。157メロスも満面に喜色を湛えしばらくは王とのあの約束をさえ忘れていた。158祝宴は夜に入っていよいよ乱れ華やかになり人々は外の豪雨を全く気にしなくなった。159メロスは一生このままここにいたいと思った。160この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったがいまは自分のからだで自分のものでは無い。161ままならぬ事である。162メロスはわが身に鞭打ちついに出発を決意した。163あすの日没までにはまだ十分の時が在る。164ちょっと一眠りしてそれからすぐに出発しようと考えた。165その頃には雨も小降りになっていよう。166少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。167メロスほどの男にもやはり未練の情というものは在る。168今宵呆然歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄りおめでとう。169私は疲れてしまったからちょっとご免こうむって眠りたい。170眼が覚めたらすぐに市に出かける。171大切な用事があるのだ。172私がいなくてももうおまえには優しい亭主があるのだから決して寂しい事は無い。173おまえの兄の一ばんきらいなものは人を疑う事とそれから嘘をつく事だ。174おまえもそれは知っているね。175亭主との間にどんな秘密でも作ってはならぬ。176おまえに言いたいのはそれだけだ。177おまえの兄はたぶん偉い男なのだからおまえもその誇りを持っていろ。178花嫁は夢見心地で首肯いた。179メロスはそれから花婿の肩をたたいて仕度の無いのはお互さまさ。180私の家にも宝といっては妹と羊だけだ。181他には何も無い。182全部あげよう。183もう一つメロスの弟になったことを誇ってくれ。184花婿は揉み手しててれていた。185メロスは笑って村人たちにも会釈して宴席から立ち去り羊小屋にもぐり込んで死んだように深く眠った。186眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。187メロスは跳ね起き南無三寝過したかいやまだまだ大丈夫これからすぐに出発すれば約束の刻限までには十分間に合う。188きょうは是非ともあの王に人の信実の存するところを見せてやろう。189そうして笑って磔の台に上ってやる。190メロスは悠々と身仕度をはじめた。191雨もいくぶん小降りになっている様子である。192身仕度は出来た。193さてメロスはぶるんと両腕を大きく振って雨中矢の如く走り出た。194私は今宵殺される。195殺される為に走るのだ。196身代りの友を救う為に走るのだ。197王の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。198走らなければならぬ。199そうして私は殺される。200若い時から名誉を守れ。201さらばふるさと。202若いメロスはつらかった。203幾度か立ちどまりそうになった。204えいえいと大声挙げて自身を叱りながら走った。205村を出て野を横切り森をくぐり抜け隣村に着いた頃には雨も止み日は高く昇ってそろそろ暑くなって来た。206メロスは額の汗をこぶしで払いここまで来れば大丈夫もはや故郷への未練は無い。207妹たちはきっと佳い夫婦になるだろう。208私にはいまなんの気がかりも無い筈だ。209まっすぐに王城に行き着けばそれでよいのだ。210そんなに急ぐ必要も無い。211ゆっくり歩こうと持ちまえの呑気さを取り返し好きな小歌をいい声で歌い出した。212ぶらぶら歩いて二里行き三里行きそろそろ全里程の半ばに到達した頃降って湧いた災難メロスの足ははたととまった。213見よ前方の川を。214きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し濁流|滔々と下流に集り猛勢一挙に橋を破壊しどうどうと響きをあげる激流が木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。215彼は茫然と立ちすくんだ。216あちこちと眺めまわしまた声を限りに呼びたててみたが繋舟は残らず浪に浚われて影なく渡守りの姿も見えない。217流れはいよいよふくれ上り海のようになっている。218メロスは川岸にうずくまり男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。219ああ鎮めたまえ荒れ狂う流れを!時は刻々に過ぎて行きます。220太陽も既に真昼時です。221あれが沈んでしまわぬうちに王城に行き着くことが出来なかったらあの佳い友達が私のために死ぬのです。222濁流はメロスの叫びをせせら笑う如くますます激しく躍り狂う。223浪は浪を呑み捲き煽り立てそうして時は刻一刻と消えて行く。224今はメロスも覚悟した。225泳ぎ切るより他に無い。226ああ神々も照覧あれ!濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力をいまこそ発揮して見せる。227メロスはざんぶと流れに飛び込み百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に必死の闘争を開始した。228満身の力を腕にこめて押し寄せ渦巻き引きずる流れをなんのこれしきと掻きわけ掻きわけめくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には神も哀れと思ったかついに憐愍を垂れてくれた。229押し流されつつも見事対岸の樹木の幹にすがりつく事が出来たのである。230ありがたい。231メロスは馬のように大きな胴震いを一つしてすぐにまた先きを急いだ。232一刻といえどもむだには出来ない。233陽は既に西に傾きかけている。234ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼりのぼり切ってほっとした時突然目の前に一隊の山賊が躍り出た。235待て。236何をするのだ。237私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。238放せ。239どっこい放さぬ。240持ちもの全部を置いて行け。241私にはいのちの他には何も無い。242そのたった一つの命もこれから王にくれてやるのだ。243そのいのちが欲しいのだ。244さては王の命令でここで私を待ち伏せしていたのだな。245山賊たちはものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。246メロスはひょいとからだを折り曲げ飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかりその棍棒を奪い取って気の毒だが正義のためだ!と猛然一撃たちまち三人を殴り倒し残る者のひるむ隙にさっさと走って峠を下った。247一気に峠を駈け降りたが流石に疲労し折から午後の灼熱の太陽がまともにかっと照って来てメロスは幾度となく眩暈を感じこれではならぬと気を取り直してはよろよろ二三歩あるいてついにがくりと膝を折った。248立ち上る事が出来ぬのだ。249天を仰いでくやし泣きに泣き出した。250あああ濁流を泳ぎ切り山賊を三人も撃ち倒し韋駄天ここまで突破して来たメロスよ。251真の勇者メロスよ。252今ここで疲れ切って動けなくなるとは情無い。253愛する友はおまえを信じたばかりにやがて殺されなければならぬ。254おまえは稀代の不信の人間まさしく王の思う壺だぞと自分を叱ってみるのだが全身|萎えてもはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。255路傍の草原にごろりと寝ころがった。256身体疲労すれば精神も共にやられる。257もうどうでもいいという勇者に不似合いな不貞腐れた根性が心の隅に巣喰った。258私はこれほど努力したのだ。259約束を破る心はみじんも無かった。260神も照覧私は精一ぱいに努めて来たのだ。261動けなくなるまで走って来たのだ。262私は不信の徒では無い。263ああできる事なら私の胸を截ち割って真紅の心臓をお目に掛けたい。264愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。265けれども私はこの大事な時に精も根も尽きたのだ。266私はよくよく不幸な男だ。267私はきっと笑われる。268私の一家も笑われる。269私は友を欺いた。270中途で倒れるのははじめから何もしないのと同じ事だ。271ああもうどうでもいい。272これが私の定った運命なのかも知れない。273セリヌンティウスよゆるしてくれ。274君はいつでも私を信じた。275私も君を欺かなかった。276私たちは本当に佳い友と友であったのだ。277いちどだって暗い疑惑の雲をお互い胸に宿したことは無かった。278いまだって君は私を無心に待っているだろう。279ああ待っているだろう。280ありがとうセリヌンティウス。281よくも私を信じてくれた。282それを思えばたまらない。283友と友の間の信実はこの世で一ばん誇るべき宝なのだからな。284セリヌンティウス私は走ったのだ。285君を欺くつもりはみじんも無かった。286信じてくれ!私は急ぎに急いでここまで来たのだ。287濁流を突破した。288山賊の囲みからもするりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。289私だから出来たのだよ。290ああこの上私に望み給うな。291放って置いてくれ。292どうでもいいのだ。293私は負けたのだ。294だらしが無い。295笑ってくれ。296王は私にちょっとおくれて来いと耳打ちした。297おくれたら身代りを殺して私を助けてくれると約束した。298私は王の卑劣を憎んだ。299けれども今になってみると私は王の言うままになっている。300私はおくれて行くだろう。301王はひとり合点して私を笑いそうして事も無く私を放免するだろう。302そうなったら私は死ぬよりつらい。303私は永遠に裏切者だ。304地上で最も不名誉の人種だ。305セリヌンティウスよ私も死ぬぞ。306君と一緒に死なせてくれ。307君だけは私を信じてくれるにちがい無い。308いやそれも私のひとりよがりか?ああもういっそ悪徳者として生き伸びてやろうか。309村には私の家が在る。310羊も居る。311妹夫婦はまさか私を村から追い出すような事はしないだろう。312正義だの信実だの愛だの考えてみればくだらない。313人を殺して自分が生きる。314それが人間世界の定法ではなかったか。315ああ何もかもばかばかしい。316私は醜い裏切り者だ。317どうとも勝手にするがよい。318やんぬる哉。319――四肢を投げ出してうとうとまどろんでしまった。320ふと耳に潺々水の流れる音が聞えた。321そっと頭をもたげ息を呑んで耳をすました。322すぐ足もとで水が流れているらしい。323よろよろ起き上って見ると岩の裂目から滾々と何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。324その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。325水を両手で掬って一くち飲んだ。326ほうと長い溜息が出て夢から覚めたような気がした。327歩ける。328行こう。329肉体の疲労|恢復と共にわずかながら希望が生れた。330義務遂行の希望である。331わが身を殺して名誉を守る希望である。332斜陽は赤い光を樹々の葉に投じ葉も枝も燃えるばかりに輝いている。333日没までにはまだ間がある。334私を待っている人があるのだ。335少しも疑わず静かに期待してくれている人があるのだ。336私は信じられている。337私の命なぞは問題ではない。338死んでお詫びなどと気のいい事は言って居られぬ。339私は信頼に報いなければならぬ。340いまはただその一事だ。341走れ!メロス。342私は信頼されている。343私は信頼されている。344先刻のあの悪魔の囁きはあれは夢だ。345悪い夢だ。346忘れてしまえ。347五臓が疲れているときはふいとあんな悪い夢を見るものだ。348メロスおまえの恥ではない。349やはりおまえは真の勇者だ。350再び立って走れるようになったではないか。351ありがたい!私は正義の士として死ぬ事が出来るぞ。352ああ陽が沈む。353ずんずん沈む。354待ってくれゼウスよ。355私は生れた時から正直な男であった。356正直な男のままにして死なせて下さい。357路行く人を押しのけ跳ねとばしメロスは黒い風のように走った。358野原で酒宴のその宴席のまっただ中を駈け抜け酒宴の人たちを仰天させ犬を蹴とばし小川を飛び越え少しずつ沈んでゆく太陽の十倍も早く走った。359一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間不吉な会話を小耳にはさんだ。360いまごろはあの男も磔にかかっているよ。361ああその男その男のために私はいまこんなに走っているのだ。362その男を死なせてはならない。363急げメロス。364おくれてはならぬ。365愛と誠の力をいまこそ知らせてやるがよい。366風態なんかはどうでもいい。367メロスはいまはほとんど全裸体であった。368呼吸も出来ず二度三度口から血が噴き出た。369見える。370はるか向うに小さくシラクスの市の塔楼が見える。371塔楼は夕陽を受けてきらきら光っている。372ああメロス様。373うめくような声が風と共に聞えた。374誰だ。375メロスは走りながら尋ねた。376フィロストラトスでございます。377貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。378その若い石工もメロスの後について走りながら叫んだ。379もう駄目でございます。380むだでございます。381走るのはやめて下さい。382もうあの方をお助けになることは出来ません。383いやまだ陽は沈まぬ。384ちょうど今あの方が死刑になるところです。385あああなたは遅かった。386おうらみ申します。387ほんの少しもうちょっとでも早かったなら!いやまだ陽は沈まぬ。388メロスは胸の張り裂ける思いで赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。389走るより他は無い。390やめて下さい。391走るのはやめて下さい。392いまはご自分のお命が大事です。393あの方はあなたを信じて居りました。394刑場に引き出されても平気でいました。395王様がさんざんあの方をからかってもメロスは来ますとだけ答え強い信念を持ちつづけている様子でございました。396それだから走るのだ。397信じられているから走るのだ。398間に合う間に合わぬは問題でないのだ。399人の命も問題でないのだ。400私はなんだかもっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。401ついて来い!フィロストラトス。402あああなたは気が狂ったか。403それではうんと走るがいい。404ひょっとしたら間に合わぬものでもない。405走るがいい。406言うにや及ぶ。407まだ陽は沈まぬ。408最後の死力を尽してメロスは走った。409メロスの頭はからっぽだ。410何一つ考えていない。411ただわけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。412陽はゆらゆら地平線に没しまさに最後の一片の残光も消えようとした時メロスは疾風の如く刑場に突入した。413間に合った。414待て。415その人を殺してはならぬ。416メロスが帰って来た。417約束のとおりいま帰って来た。418と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり群衆はひとりとして彼の到着に気がつかない。419すでに磔の柱が高々と立てられ縄を打たれたセリヌンティウスは徐々に釣り上げられてゆく。420メロスはそれを目撃して最後の勇先刻濁流を泳いだように群衆を掻きわけ掻きわけ私だ刑吏!殺されるのは私だ。421メロスだ。422彼を人質にした私はここにいる!とかすれた声で精一ぱいに叫びながらついに磔台に昇り釣り上げられてゆく友の両足に齧りついた。423群衆はどよめいた。424あっぱれ。425ゆるせと口々にわめいた。426セリヌンティウスの縄はほどかれたのである。427セリヌンティウス。428メロスは眼に涙を浮べて言った。429私を殴れ。430ちから一ぱいに頬を殴れ。431私は途中で一度悪い夢を見た。432君が若し私を殴ってくれなかったら私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。433殴れ。434セリヌンティウスはすべてを察した様子で首肯き刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。435殴ってから優しく微笑みメロス私を殴れ。436同じくらい音高く私の頬を殴れ。437私はこの三日の間たった一度だけちらと君を疑った。438生れてはじめて君を疑った。439君が私を殴ってくれなければ私は君と抱擁できない。440メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。441ありがとう友よ。442二人同時に言いひしと抱き合いそれから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。443群衆の中からも歔欷の声が聞えた。444暴君ディオニスは群衆の背後から二人の様をまじまじと見つめていたがやがて静かに二人に近づき顔をあからめてこう言った。445おまえらの望みは叶ったぞ。446おまえらはわしの心に勝ったのだ。447信実とは決して空虚な妄想ではなかった。448どうかわしをも仲間に入れてくれまいか。449どうかわしの願いを聞き入れておまえらの仲間の一人にしてほしい。450どっと群衆の間に歓声が起った。451万歳王様万歳。452ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げた。453メロスはまごついた。454佳き友は気をきかせて教えてやった。455メロス君はまっぱだかじゃないか。456早くそのマントを着るがいい。457この可愛い娘さんはメロスの裸体を皆に見られるのがたまらなく口惜しいのだ。458勇者はひどく赤面した。459[#地から1字上げ](古伝説とシルレルの詩から。460)461